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2019年07月13日(土)  【研究】大学職員の学びを考える
ここ数年、大学職員の学びの探求を行ってきました。

いわゆるSD/職能開発の先駆者は数多く、例えばそもそもSDが必要だとする主張、あるいは具体に必要とされる能力の精緻化の探求、現場での育成、など様々な取り組みがあろうかと思います。

私が取り組んできた領域は、それらとは関係するけれども、ちょっと重ならないようなところです。ざっくり言うと、「何で学ぶようになるの?」「学ぶ人は学び自体を自分の中でどう捉えているの?意味づけているの?」「学ぶことと仕事はどういう関係にあるの?」という辺りです。

まだ明確に結論が出たわけでは無いですが、一つ見えてきたこと、言えるのかなと思うことがあります。それは「自発的に学ぶようになった人の人生」と「『高等教育の変動の時代、職員の高度化・専門化が必要、SDが重要』という言説」はクロスするかもしれませんし、実際クロスして似ていることがあっても、そもそもは異なるものだということです。

時代の流れとして、いわゆるSD論が勃発するのは1990年代の後半で、その後JUAMが発足し、2000年代にはマネ研の発足、桜美林大学をはじめとする職員向けの大学院の発足・拡充、現場業務での高度化・専門化のニーズの広がり、法制度上のSDの義務化(2017年施行)に至っています。

こうした時代の流れは確かに個々人に影響を与えるでしょうし、それに触発されて大学院に行った方もおられると思います。また大学院での学びを現場に活かせている方もおられると思います。そのような行動は、一見(サクセス)ストーリーとして認識されてしまいますし、「そのように行動すべきだ」という説得力を持ってしまうのは確かです。

しかし、その自発的な行動は、職場が主導するものではない以上、職務との結びつきが生じるのは当然とは言えないわけです。“たまたま”そうなることがあったとしても。

そもそも大学職員にとって、自発的な学びが必然的に生じるわけではありません。後にそうした学びに踏み入れる人であっても、当初は「学びのきっかけ」がきっかけにならなかった例もあります(cf.大学行政管理学会誌(22),pp.81-92,2018年)。また、学ぶことやその活用は、職場で当然のように受容されるわけではありません。実際、大学院で学んだ方であっても、直線的に結びつけるような意味づけ・活用を行っているわけでもありません(cf.大学教育学会誌41(1),pp.157-166,2019年7月)。

ですので、「大学院で学んだ。仕事には全く関係ないまま終わった。でも学びが楽しかったからOK」ということは当然ありえますし、本人がハッピーであれば他人がとやかく言うことでもないでしょう。とはいえ、学んだのであれば、その知を他のことに、NPOでも地域活動でもいいのですが、せっかくですので職務上に事柄に結び付けられるような工夫をしてみるという選択はアリでしょう。

ただ、それを全部本人任せにするとしたら、それはひどい話でしょう。そうした有志が学内で数人集まったとして、勉強会活動をやったりしたとしても、それはある意味ゲリラ活動で、メインストリームに包摂されるということにはなかなかならないでしょう。うまく結び付けられるようにする仕組み・仕掛けが必要になるわけです。

そうした仕組みは色々とあると思いますが、個人的に注目しているのはいわゆるポートフォリオの活用です。それを活用する方々の支援の仕組みづくりに関心がありますが、実際に取り組むのはちょっと先になりそうです。当面は大学職員の学びの探求に関する取り組みにもう少し注力し、一段落つけたいなと思ってます。
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