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2016年11月05日(土)  【高等教育】大学院教育の価値は
大学院教育が役に立つかどうか。これはあまりに漠然としており、問いの立て方としてはあまり良いものではない。

第一に、例えば次のような前提をつける必要はあろう。

  • 「大学院教育を受けた人間の判断において」
  • 「大学院修了者を受け入れる側の判断において」
  • 「修了後の出世の度合いや収入等の指標において」

第二に、大学院教育の意味も分野によって大きく異なる。研究者を目指す者にとっては基礎教育課程としての意味づけがあるし、一部の専門職(法曹)においては制度上必須と言ってよい(司法試験予備試験などの例外を除く)。一方、MBAなどは必ずしも職業との関連性(レリバンス)が高いものではない。

第三に、受け入れ側の観点も異なる。大学院修了者を受け入れる側である研究者コミュニティや専門職コミュニティ自体が、同様の大学院経験者(法曹は現行制度の前後で分ける必要があろうが)が多数を占めており、大学院教育自体やその修了者に対して経験者としての視点から評価することができるであろう。一方、そうしたコミュニティが成立していない、社会一般の組織が直接的に、MBAなり政策系大学院なりを評価しうることは無い。またそうした一般の組織では大学院修了したこと自体が評価されるわけではない。

こうしたことを考えると、同じ大学職員であっても「心理系大学院を修了し、心理面で学習支援職として携わるポジション」と「高等教育系大学院、MBAや政策系大学院を修了した後、事務を中心とするポジション」では同じように語ることができないであろう。

一ケースの話をどこまで敷衍できるか留意すべきところであるが、自分自身の経験から少し。私自身は教員養成系の教育学研究科の修士課程を修了した後に事務職員として就職した。就職して数年は大学院で養われた基礎能力を知覚することは全く無かった。また大学院に行ったこと自体で何かポジションが異なるということも無かった。修士論文のテーマは環境社会学分野であったが、そのテーマに関する知見が業務に役立つことはなんら無かった。

そうした自分が大学院を修了した効用を感じたのは、出向時のことである。当時の出向先はルーチンワークはほとんど無く、毎日が企画企画の日々であった。各担当者が様々な企画立案を行う必要があるし、補助金の申請書も書く立場に立たされることもあった。そうしたある日、当時の上司が「お前は文書がよく書けるなあ、やっぱり大学院に行くと違うなあ」と言ってくれたのである。自分自身ではそれまで全く気づかなかったが、修士論文を書き上げるまでに培った課題設定の力や長文を論理的に書く力が役に立ったのであろうと改めて気づかされた。

このことの示唆を二つ挙げたい。

  1. 職場では「大学院に行ったこと自体」が評価されるのではなく、「大学院に行ったことで養われた能力が発揮されること」で評価される。
  2. 業務自体が大学院に行って養われる力を求められるような業務に転換しなければ、大学院に行くことが求められたり評価されることは無い。

大学職員の高度化が叫ばれる今日、組織側にとって重要なのは後者の観点であろう。業務そのものが高度なものにならなければ、大学院修了者の職員が増えたとしても、単なるオーバースペックに終わるだけである。またそうした高度な業務をハンドリングする側には、従事する者の能力を見定めることができる力量も必要であろう。
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