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2017年09月05日(火)00:40  【研究】データに対していかに我々は謙虚になれるか
先日、2017年度の第21回の大学行政管理学会の定期総会・研究集会に参加しました。二日間様々なお話を聞き、一つ考えさせられたことがあります(これは特定のプログラムなり発表に対してではなく、私が単に思ったということです)。

それは「データに対していかに我々は謙虚になれるか」というものです。

第一に、揺るぎないエビデンスという意味のデータに対しては、それを無視しない、謙虚に認めることが望ましいのは言うまでも無い話です。

第二に、データの信頼性・妥当性についてです。苦労を重ねて収集したデータであっても、信頼性・妥当性が低ければ、いくら分析に分析を重ねても意味がありません。この場合、そういうデータであることを念頭においてどうするか立ち止まって考える。場合によってはそのデータを使わないという判断になることもあるかと思いますが、これも謙虚な態度かと思います。

第三に、自然科学的なデータと、社会科学的なデータの性質の違いについても謙虚であるべきかと思います。自然科学で扱うデータは、通常の意味では解釈が入る余地のない、不変のものであり、実験や計測はコストを無視すれば、何百回であろうと繰り返すことが可能です。

一方、社会科学で扱うデータ、質問紙調査から出てきたデータは、自然科学的なデータと異なり、主観性を完全に排除することができません。そうしたデータに自然科学的なアプローチを利用するとしても、完全な自然科学的なデータとみなさない視点を確保しておくこと、これも謙虚な態度かと思います。

第四に、データに対するアプローチ(発想も含む)です。定量的なアプローチで主流の方法があるとして、それ自身にはいいも悪いも無いと思います。ただ、そういうアプローチ・発想が、全ての事柄に対して適用できるわけではありません。例えば、N=1のような「厚い記述」でなされるような研究、研究対象者の生活世界を読み解く・理解して記述していくような研究に対して、定量的なアプローチ・発想のお作法に則って批判をしても意味がないでしょう。

定量的研究であれ、定性的研究であれ、どちらも我々の世界の全てを切り取ることはできません。それぞれが示せる世界の断片は異なっています。それが社会科学には定量的アプローチと定性的アプローチの二つがある理由です。どちら(あるいは両方)を使うにせよ、それぞれのアプローチでできること・限界に謙虚であることが望ましいように思います。

なお、定量的・定性的研究の対話は色々とあると思いますが、「『比較しろ」って簡単に言いますけどね――質的調査VS量的調査」(岸政彦×筒井淳也)は面白いと思います。
http://synodos.jp/society/19195
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